“ぬくもり”を摺り出す
野田版画工房の「襖紙」
日本人は古くから壁紙や表具などのインテリアに和紙を取り入れ、
自然素材ならではの風合い、絵柄や紋様などの装飾を楽しんできました。
野田拓真さん、藍子さんの夫婦が営む野田版画工房は、
唐紙(からかみ)という伝統的な技法を応用し、独自のデザインと遊び心を加えることで
暮らしに彩りを添える襖や壁紙などを仕立てています。
エッジの効いた表現のなかに、どこかぬくもりを感じさせる作品の数々。
そのきめ細やかな手仕事のなかに、住空間を楽しむヒントがありました。
- 野田版画工房(滋賀県 東近江市)
版画造形作家 野田 拓真さん|
図案家 野田 藍子さん - 1978年、京都府生まれ。嵯峨美術短期大学卒業後、京都の老舗唐紙工房での修業を経て2011年に独立。滋賀県東近江市へ移住し、工房を構える。襖、屏風などの受注制作のほか、展覧会への出展を通して独自の作品を発表。版木の制作から紙の染色、仕立てまで、制作のほとんどを手がけ、拓真さんはおもに紙の染色、型押し、仕立てなどを担当。妻・藍子さんは図案家として版木デザイン、制作などを担当する。
- HP:nodahanga.com
伝統に新しい発想を加えることで、
自分たちならではの世界観を
追求していきたい。
琵琶湖の東側に位置する滋賀県東近江市。豊かな自然に囲まれたのどかな山間の小さな集落に、野田版画工房はあります。野田拓真さん、藍子さんのご夫妻が京都からこの土地に移り住んだのは、2011年春のこと。15年ほど空き家になっていた築30年の日本家屋を住居兼アトリエとして購入し、昔ながらの造りに小さな遊び心を取り入れながら、日々の暮らしを楽しんでいます。
野田版画工房がつくり出すのは、襖や屏風、衝立や壁紙など、住人の暮らしに寄り添うように空間を彩る表具作品。唐紙(からかみ)の伝統的な技法に、大胆な色彩と斬新なデザインを加えることで、空間の印象を決めるほどの存在感を持つ、オリジナル作品を制作しています。
この唐紙とは、奈良時代に中国より伝わった装飾紙のこと。用意した和紙に、胡粉(ごふん)や雲母(きら)などの顔料でつくった絵の具を刷毛で染める〝具引き(ぐびき)〟を行い、絵の具を均一に塗るための〝篩(ふるい)〟という道具を使って版木に絵の具を塗布。それらを見当に沿って重ね合わせ、文様を摺り写していきます。優しく撫でるように写し取られた文様には、〝たらし込み〟と呼ばれる絵の具が流れるようなテクスチャーが生まれ、空間に真珠のような深みのある光沢と独特の陰影をもたらします。野田版画工房では、妻・藍子さんが考案したオリジナルの図案を基に版木を彫り、紙の染めから、摺り、表具に仕立てるまでのほとんどをご主人である野田さんが手がけています。
野田さんは、嵯峨美術短期大学で銅版画を学んだのち、老舗の唐紙工房で5年間修行。「版画には、絵画のような直接的な表現にはない、洗練された魅力があります。卒業後、将来の方向性を見定めるタイミングで唐紙に出会い、デザインから版づくり、摺りまでのすべてが手仕事でつくられていること、さらには襖の最終的な仕立てまで請け負えることに惹かれて、この仕事をはじめました」。使用する和紙の質感や厚さ、絵の具の素となる顔料の配合はもちろんのこと、刷毛の動かし方ひとつで、仕上がりに雲泥の差が生じるという唐紙づくり。そこにはイメージを具現化するための確かな技術と経験値、研ぎ澄まされた感覚が必要とされます。
「僕のつくる紙は、見る方によっては邪道に映るかもしれません」。室内装飾の伝統工芸品である唐紙は、文様・絵具・道具・手順ともに古来の伝統を守り、継承されたもの。「もちろん理にかなった技法ですが、大切なのはプロセスではなく最終的なアウトプットだと思っていて。伝統工芸の基本的な要素はベースとして使わせていただきますが、そこに自分なりの解釈をくわえて崩していかないと、新しいものはできないんじゃないかと。唐紙としての美しさは大切にしつつ、自分たちがかっこいいと思えるもの、見る方の心に響く表現を追求していきたいですね」。
野田さんの型にとらわれない発想は、素材の紙選びにも。京唐紙にはよく越前の島の子紙が使われますが、野田さんはそれ以外にも、徳島県の阿波紙、滋賀県の成子和紙なども使用しています。「絵の具の吸収性や水分の弾き加減、表面の紙肌や厚さが重要です。襖用としてつくられた和紙だけでなく、柔軟な視点を持って、いろいろな紙を試していきたいですね」。
野田版画工房の襖紙が高く評価されるもうひとつの要因は、その絵柄とデザイン。作品コンセプトを2人で決めたのち、藍子さんが描き溜めておいたスケッチを元に、図案化を進めていきます。「ひとつは、普段目にする里山の自然をモチーフにしたパターン作品。もうひとつは、人間の有機的な動きを抽象化した〝身体シリーズ〟です。これはコンテンポラリーダンスからインスピレーションを受けたもので、その人間離れした動きや躍動感がヒントになっています」(藍子さん)。唐紙に用いられる図柄の大半は、花鳥風月の伝統文様や画一的な幾何学模様。野田版画工房は古き良きものに、型にはまらない新しい感覚と時代のエッセンスを付加することで、オリジナル性を確立しています。
前衛的で革新的な印象のデザインとは方向性の異なる、どこか柔らかさとぬくもりを感じさせる作品。空間に調和した1枚の絵画を眺めているような気持ちになる詩情豊かな作風も、野田版画工房ならではのものです。「デザインにストーリー性を盛り込んだ作品も多くあります。受注製作の場合は、ヒアリングした内容を元にデザインを進めますが、昔話や神話など、子育てのなかで見聞きしたものがヒントになることが増えていますね」と藍子さん。作品から優しさや安らぎを感じるのは、作家であると同時に小さな子を持つ親であり、成長を温かく見守る親の愛情が表れているに違いありません。
伝統の技術を用いながらも、暮らしに彩りを与える表現を追求し続ける野田さん。「襖は面積が大きいので部屋の主役にもなりえるもの。だからこそ、空間全体をデザインする感覚を大切にしています。ふと目にしたときに心に何か訴えかけてくるような、対話するような感覚にさせる作品をつくっていきたいですね」。何かを語らずとも、そこに存在しているだけで心が和む。日常に溶け込む存在でありながら、なくてはならないものとしてともに暮らす。野田さんが心を込めて生み出す襖紙には、どんな空間にも調和する包容力と、生活にアートを取り入れることで心を豊かにするエッセンスが詰まっています。